本名:三木 操(みき みさお)
明治22年6月23日生−昭和39年12月29日没 75才
たつの市龍野町に生まれ。
小学校時代に俳句を作り、中学時代に詩作している。詩集「廃園」は北原白秋の「邪宗門」と並んで、詩壇に新風を吹き込み、「白露時代」を現出した。
「寂しき曙」、「白き手の猟人」は、内面的に沈潜し、情緒の音楽的表現という点ですぐれている。
有名な「赤とんぼ」の歌は、昭和2年山田耕筰によって作曲され全国を風靡。現在もなお名詩として歌いつづけられている。
昭和33年龍野市名誉市民。
本名:内海 信之(うつみ のぶゆき)
明治17年8月30日生−昭和43年6月14日没 84才
たつの市揖西町の生まれ。
鷺城新聞(姫路市)の投書家として出発。「明星」に石川啄木、北原白秋と並んで三選作が発表され、注目された。闘病生活の後、憲政擁護運動に走り、「高人犬養木堂」の著述などを発表したが、太平洋戦争中は沈黙を守り通した。氏の本質は田園の詩人で、自然のなかに人間と社会を愛の瞳で見つづけた。地方文化の先覚者として、時流に媚びず、ひたすら孤高の生活を守りつづけた。
昭和34年龍野市名誉市民。
本名:矢野 勘治(やの かんじ)
明治13年12月20日生−昭和36年6月18日没 81才
たつの市龍野町生まれ。
一高時代、正岡子規の門に入り、短歌や俳句を作り、根岸短歌会の歌会形式を龍野に持ち込む。
岡麓、香取秀真、伊藤左千夫、長塚節らは、同時代の子規同門。東大卒後、横浜正金銀行のロンドン支配人などをしていたが、太平洋戦争中に龍野へ帰ってきた。氏の名を終生に残す一高の寮歌「春爛漫」は一高二年のとき(明治34年2月)、「嗚呼玉杯に」は一高三年のとき(明治35年2月)に作ったものである。
昭和34年龍野市名誉市民。矢野勘治記念館は、勘治が故郷に悠々の晩年を送った自宅であり、遺族より市へ寄贈されたものです。
本名:三木 清(みき きよし)
明治30年1月5日生−昭和20年9月26日没 48才
たつの市揖西町の生まれ。
龍野中学時代には文学に親しみ、小説や漢詩・短歌を作っているが、一高入学後哲学を専攻する決意を固め、京大に学んで、西田哲学門下の鬼才とうたわれた。
処女作「パスカルに於ける人間の研究」をはじめ、「人生論ノート」「哲学ノート」など数多くの著書を世に送り、世界的哲学者への道を切り拓いていった。
昭和20年3月高倉テル事件があり、それに関連していた廉で同年6月巣鴨の東京拘置所に送られたが、のち豊多摩刑務所に移され同年9月26日病のため獄死した。
平成9年龍野市名誉市民。
〒679-4179
兵庫県たつの市龍野町
上霞城(かみかじょう)30-3
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